手作業へのこだわり

2018年7月20日 [ 雑記] [ ]

同好会にて。皆さん集まってわいわいと「正しき仏像彫刻として許されるのはどの道具使用までか」を話していました。彫刻刀・ノミはいいとして他に、正式な仏像彫刻と認められる使用可能な道具って何だろう、という話題。
のこぎり

今どきの安い仏像のように、3Dプリンターみたいにデータを入れて機械が削り(彫るのではなく削る)最後だけ人間が表面を彫った物を“彫刻”と呼んでいいのだろうかという疑念があります。では、“彫刻”と呼べるにはどういう作り方がいいものか?

実はお寺へ寄贈する光背と台座を作り始めた方がおられまして。お寺には阿弥陀さま本体だけがあるとかで、阿弥陀さまを乗せる台を作ってくれないかとリクエストされて気軽に引き受けたら実は予想よりだいぶ大きな像だったそうで、「えらい大仕事だ」と笑っていました。

その荒彫りがものすごい作業量なのです。それを手作業でやっていました。ちょうど私が電動彫刻刀を持って来ていたもので「使いますか?」と聞いたところ、自分の手で全部やりたいとのこと。お寺へ寄贈する物だけに思い入れが深いのですね。だから「正式な」にこだわったわけです。それに続き、上記のような話題へ。

結果としては、電動でない道具がベターでは、というところでまとまったようです。そもそも大物仏師は台座を作らない、本体しか作らないから、って。本体以外は弟子が作ったりするし、荒彫りが要らないくらいまで木地師がろくろで挽いて形作ってくれます。

整った形だけ欲しいのであれば3Dプリンターでも何でもいいと思います。例えば仏像のフィギュアなど。良いとか悪いとかでなく、何を重視するかの違い。思いを込めて彫る人がこだわるのは「過程」の重視。もちろん最終的な形である「結果」も気にしますが、それが祈りの対象となる物である以上、そこに至るまでの過程のひとつひとつをできる限り自力で丁寧にこなしたいのです。

小地蔵さん・小毬ちゃんを作るにあたり、私もそれは同じです。腱鞘炎を起こしやすい体質のため堅い木口の荒彫りには電動彫刻刀を少々使いますが、用材の仕入れ・切り出しから全て自分でやっています。
木取りの状態

先輩の寄贈する台座光背は、プロに作ってもらったら何十万円かかるかという大作です。用材だけでもびっくりする値段でした。でも、きっと素晴らしい作品に仕上がると思います。その想いの深さが伝わってきて心洗われるひと時でした。

良いも悪いも

2018年6月6日 [ 雑記] [ ]

友人が聞かせてくれた話です。その友人は今、自分に要らない物事を手放す作業の真っ最中で色々勉強もしていて、熱く語ってくれました。話している中で印象に残った言葉がこれ。

「悪い」だけでなく「良い」と思う事も手放す。それが本当の解放。

なるほどなぁと思ったわけです。自己啓発を始めると「悪い」ネガティブ感情・価値観だけを手放そうとするものだけど、本当はその対極にある「良い」もひもの両端でつながっているのだから、両方手放さないといけないんですね。

良いとか悪いとかジャッジする事自体が傾いている状況で、良いも悪いもない、ただその事実が存在するのみというのが本当に手放した「中庸」なのでしょう。片方だけ放してもひもの端っこを握ったままでは手放すことはできない、と。

目からうろこが落ちたような感覚でした。人間だから常に中庸ではいられないけれども、それほど大きくない振り幅で行ったり来たりしながら中央辺りをうろうろできたらいいなぁ。

「やってみたい」と「やりたい」の違い

2018年5月21日 [ 雑記] [ ]

好奇心は強い方でして、やってみたいと思う事は多々あります。「やってみたい」と「やりたい」の違いについて考える機会がありました。

私が思うに、「やってみたい」は純粋な好奇心から、自分に合うかどうか面白いかどうかも分からないけれど興味があるから試してみたい・体験してみたい時で、「やりたい」は自分に何らかの確信がある時。以下、趣味の場合で考えてみました。

私は「やってみたい」場合なら、できるだけ手近な道具で代用しお金をかけずに試してみるようにしています。高い道具を揃えておきながら1回やって「やってみたら合わなかった」「1回やってみてもう満足」ではもったいないし、それを重ねていくと家の中が物であふれてしまうから。イメージとしては、腰を引いて片足をそっと入れ探ってみる感じ。

「やりたい」場合は、道具も初級用とか中級用とかレベルに合わせて揃えます。真に技術力の高い人は道具も選びませんが、初級~中級では道具の良し悪しに影響される可能性が高いので。でも本当の初心者は道具がどんなに良くても関係ないかも。イメージとしては腰を入れて両足とも踏み込む感じ。

仏像彫刻の教室も、入れ替わり立ち代わり「やってみたい」人が参加しています。体験教室があれば手持ちの彫刻刀で参加し、面白いと思えるかどうか試してみれば、続けてみたいかどうかも分かるでしょう。上手な試し方じゃないでしょうか。ただ、できれば手を付けた物を仕上げるまでは続けるつもりで試してほしいな…とも思います。あの達成感を味わってほしいから。

私は仏像彫刻を(というか木彫を)やってみようと思い立って教室に入った際、彫刻刀がなかったので7本3800円のセットを先生から買いました。1体は仕上げるつもりだったから半年やって乗馬へ移る予定が、同席の老紳士達とのおしゃべり(というより話を聞いて過ごす時間)が楽しくてついつい、そのまま居つく結果に。
第1作・制作期間7ヶ月

その後3年間はなぎなた刀を2本買っただけ。更にその後、本腰を入れるようになってから少しずつ必要な刀を買い足しました。今でも最初に買ったセットの刀を使っております。三木章の製品らしいですが初心者用の割によく切れます。

趣味なんて(本当は仕事も)、やってみなけりゃ分からない。仏像彫刻の教室を継続する人は少ないですが、(個人的には寂しいけど)それでいいのでは。10試して1当たれば御の字じゃないですかね。
大日如来前

それにね、全く未知の経験に対して「できるのか」なんて考えるのはナンセンスだと思うのです。だってやったことないんだから分かるわけない。でも大人ってそういう質問するんですよね。可能性をやる前からふさいでつぶしちゃってる。

なーんて、とりとめもなくつらつら考えていたのでした。

情報断食

2018年5月1日 [ 雑記] [ ]

朝起きてまずするのが「友人が何をしているか覗くこと」って、暮らし方としておかしい…。

実生活で同じことを行動したら、「隣は今何してるか」なんて覗くのが習慣だったら「おかしい」人で「気持ち悪く」て通報されかねません。そう気付いてから、情報断食中です。といってもネットには接続するし必要な事はします。ただ他人の動向は意識することなく、とても快適です。

SNSありきで育つ今の子たちは、大変だね。自分にとっては必要のない・どうでもいい多量の情報にさらされて、世界に自分の私生活を公開して、布団の中にいても人目を気にして生きてる。他人からどう見られるか、にがんじがらめになっているように見えます。

インターネット歴20年近く、ネットのコミュニティも多々活用してきた私ですが、今のSNSは好きになれません。便利だけど運営会社のやり方が嫌い。人間関係に勝手な手を加えて(アルゴリズムってやつ)情報の表示を入れ替えたり、公開情報なのにログインしない人には見させない(または見難くする)ようなやり方が特に嫌です。

嫌だと思いながら使うのは誰のためにもならないよな…という事は分かっているのです。天先案内人用に作ったFacebookページもいつまで続けるか。思うところ色々なのでした。

息苦しさを感じる人には情報断食おすすめですよ。時間が有効に使えます。それに「今、情報断食中だから」と言えば、日本人気質が抱え込むかなりのしがらみから解放されると思います。もし「今日は見るの止めとこう」と思ったのに止められなかった場合は、依存症の疑いがありますのでご注意ください。

※HPがFBページのみの業者さんは、一度ログアウトした状態で見てみるといいですよ。どれだけ不快か分かりますから。HPはSNSでない場所にちゃんと作ることをおすすめします。私はFBページしかない店のHPは見ないことにしています。

苦労に見合った輝き

2018年4月9日 [ 習作] [ ]

仏像彫刻ではケヤキというのはあまり使わないと思います。理由は、堅すぎて彫るのが大変だからだろうと。彫刻刀では刃が欠けます。それより丈夫なノミでも欠けます。彫るにはかなりの根性が要る材だと思います。

大黒柱がケヤキのイメージです。堅くて丈夫。艶があってつるっとした外観。

教室で、ケヤキで仏像を彫っている方がいました。やはり堅くてノミの刃がボロボロになってしまい、彫るのには非常な苦労をしていました。ですが、出来上がった作品は他の材には見られない艶と輝きを放っていたのです。仏像そのものの造作の良さに、木材の美しさも相まって、その苦労が報われたようでした。

それを間近で見ていた私は、苦労をいとわず頑張ったら良い事あるんだ…と思ったのでした。私はケヤキを彫るなんてとてもとてもできませんが、自分なりに頑張ればそれに見合った何かが残るような気がしたのでした。