女はしゃべって乗り越える、男は…

2018年12月12日 [ 雑記] [ ]

以前、仏像仲間の先輩から聞いた言葉をしみじみと感じる機会がありました。それは、人生の伴侶を失くした時、「女はしゃべって乗り越える。男は黙って朽ちていく」。先輩曰く、女性は連れ添いを失って尚強くなり、男性は弱っていく人が多いのだとか。

確かにその傾向は強いかも。女性の多くは辛いことも悲しいことも悔しいこともみーんな、しゃべって泣いて笑い飛ばしてやがて前を向いていきます。でも男性は感情を表現するのが苦手な人が多くて、心の中に溜め込んだまま。ガス抜きできないから内側へ爆発するのかもしれません。
蓮華と小地蔵さん

実は私の作品を買ってくださる方の約半分が男性です。小地蔵さん・こまりちゃんの甘過ぎない表情を気に入ってもらえるのかな、なんて勝手に想像しています。女性も、苦悩を表に出さず独りで耐えるタイプが多い?と感じることも。いずれにしろ、性別問わず気に入っていただけるのはうれしいです。

万年雪を地熱が溶かしていくように、心の奥深くへ静かに沈殿していく哀しみ・苦悩を仏さんが底から温めてくれるならこんな光栄なことはありません。たとえ私の作品にはピンとこなくても(それは構わないから)、ご自分に合った何かを見つけていただければと思います。

怪我してみて分かったこと

2018年11月22日 [ 雑記] [ , ]

今回の怪我で、前に書いたようなことも含めて分かったことがありました。それがこちら。

まずは何故獣医さんか。うちの犬がお世話になっている獣医さんは、特殊な高度専門医療ではなく日常的な問題にきちんと対処できる知識と技術を持っています。一般的な怪我についてももちろん適切な処置ができる人。私の手もこの人に診てもらえたら1ヶ月で治っていただろうなと、犬の診察時に思いました。ああ、犬になりたかった…。
怪我した右手

その次。人体の再生・治癒速度は普段私が意識している時間よりずっとずっとゆっくり進みました。細胞・分子といった物質レベルだとかなりの速度なのですが生物の体・命ある存在となるとゆっくりです。
不自由な暮らしの中で腹の底から感じたのは、ヒトという生物は本来ゆっくりした時間の中を生きているのだということ。効率とは別世界。普段は機械の速さに合わせていたのですね。特に日本は速いですよ。海外旅行から帰ると1週間くらいはレジのスピードについていけません。

その速度にも関係ありますが適切な処置を施したら(ここ大事)あとは、心身を休め自分の治癒力を信じて待つのみ。それを待てないと安易に薬を頼ろうとします(これ、よくあるのは風邪の時)。
私は、この状態が長引いたせいで後遺症でも残ってしまい仏像彫刻ができなくなったらどうしよう、という恐れから判断を誤りました。待つのが怖くて、いつもだったら絶対しない間違いを犯し治癒が先延びしたという結末。冷静なつもりでも内心の不安は行動に表れて失敗するもんですね。

ですが、これがヒトという生物の持つ本来の生きるスピードなのだと認識した瞬間、目の前の景色が変わりました。違う異次元世界を見つけた感じ。機械に合わせなくていいんだ。心も体もそれが自然で楽。きっとそれは仏像彫刻作品にも影響するはず。

今の自分で幸せと感じられるか

2018年11月20日 [ 雑記] [ , ]

この1ヶ月半、手の状態が一進一退を繰り返しちっとも「治癒」へと進みませんでした。1ヶ月もあれば完治するだろう怪我だと思っていたらとんでもなく悪化した挙句、2次的・3次的問題を発症し、彫刻どころか日常生活も満足にできず。前向きに暮らしているつもりでも、時にはいらだったり落胆したりの毎日。

そんな折、岸見一郎さんの言葉に「うっ」となりました。

NHK 100分de名著 「人生論ノート」の初回でした。たまたまTVを点けたらその番組で、ぼんやりと眺めていました。岸見さんが脳梗塞で身動き取れない状態になった時に到達した「自分はなんと幸せであろうか」という思いに、自分自身を振り返りました。

今の私、全然幸せだと思ってない。むしろ不幸感さえ持っていてそれから脱する事しか考えてない。助けてくれる周囲に対して感謝はしているけれど彫れないというだけで不幸な気持ちに陥ってしまっている。今まで自分は幸せだと思っていたけれどもその「幸せ」は条件付きだったんだ…。

ずきっときましたね。生かされていることに感謝するどころか、ただ1点の「できない」事(仏像彫刻)に焦点を当てて落ち込んでいる自分に気付きました。そして、自分にとってどれほど仏像彫刻が特別であるかも自覚しました。
小地蔵さん 念珠

一番ひどい状態の時は2週間、右手(利き手)を動かすこともままならず、ほぼ左手1本で暮らしました。その生活を経験してほとんどの事は、できないならできないなりのレベルで暮らしていけばいいやと割り切れました。時間さえかければそこそこイケル。
人生はいつか終わるし、いずれ衰えてできない事が増えていくのだからそれが早いか遅いかだけの話。もし後遺症が残って指が不自由になったとしても暮らすことは何とかなると思えます。
だけど仏像彫刻だけは、レベルダウンなんて絶対嫌。もっと上手になりたい、まだ彫りたい細かな細工があるのです。まだ全然やり切ってない。

ただ、だからといってその大切な何かが思い通りにできなくてネガティブな感情に浸り続けるのは、方向が違うんです。多分、そこからまた何かが始まる。

例えば疾患や障害により、生き甲斐を失ったり体ひとつ動かすのが困難な寝たきりの状態で「幸せ」に到達するのがどれほど困難なことか。それをしている人たちは何と高い山に向かって進んでいるのでしょう。

私はそんな高い山には登れないでしょうけれども、自分なりの山あり谷ありな時間を過ごしています。ちなみに手の状態は…収束は見えてきましたがもう少しでしょうかね。年内はのんびりしようと思います。

資源は無限ではない

2018年11月1日 [ 雑記] [ ]

今使っている皿がダメになったらリサイクル陶土の品に買い替えようとチェックしていました。が、その商品自体が姿を消してしまいました。

使わなくなった陶器を原料にして新たに器を作る「陶土リサイクル」自体は技術的に可能となったものの、商業的に成り立たなくて今は取り扱いストップしているようなのが非常に残念。

これが日本ではなく欧米であればきっと「素晴らしいアイデア」として消費者に受け入れられたでしょうに。確かに値段は高くなりますけどそれ以上に、持続可能な(サステナブル sustainable )社会を作ることへの価値を認めてもらえると思うのです。ヨーロッパのリサイクルガラス製品が「カッコイイ」と高く売れるように、国産のリサイクル陶土製品も価値に見合った値段で売れるようになってほしいですね。

もう少し技術が進んでリサイクルの費用が抑えられるようになったら普及するかなぁとも思います。日本に陶土が無くなったら海外から土または陶器を輸入して高い買い物をすることになりますし、日本の技術は消えていきます。それに海外の陶土だっていつかは無くなるでしょう。

先日の東京行きで、上野公園にて開催されていた陶器祭りを見ていたらリサイクル陶土の器を1点だけ見つけました。
リサイクル陶土

器のギャラリー 光では陶器のリサイクル活動をされています。「焼き物の土だって無限にあるわけじゃないのだから、このままだといつかは枯渇してしまう」という危機感に私も同感。

焼き物を深く愛するオーナー夫妻はそれを何とかしたくて、質の高い日本の焼き物を未来まで存続させるために陶器のリサイクル活動を始めたのだそうです。単に使わない器を再利用するにとどまらず、割れた物を金継ぎで修理して味わいを深めたり、陶器を原料として新たな焼き物を生み出す試みです。が、先述のような状況で今は器のままの再利用活動のみとなっているようです。

考えてみれば、木は育てられるけれども陶土はできません。今ある土を大切に使い循環させていかなければ、いずれ無くなります。今の大量消費・大量廃棄社会にあっては、その日は遠くないと思われ、実際、既に陶土の枯渇が問題となっている産地もあると聞きます。

木より深刻な陶土の枯渇。物を買うのは慎重に、手にした物は大切に使い切りたいと改めて思います。

仏像の顔いろいろ

2018年10月12日 [ 雑記] [ , ]

一言で仏像と言ってもこんなに違うんですよ、という話。

こちらトーハク東洋館に展示されているアジアの仏像です。まずは仏教発祥の地インドのお隣、パキスタン。ギリシャ彫刻の影響を受けているらしいです。でも、そもそもブッダはインド・ヨーロッパ系民族なんでしょうから(違ったら失礼)、本当にこんな顔立ちだった可能性もあるわけで。

インド系の仏像

パキスタンの菩薩

東へと布教が進みインドシナ・カンボジアのブッダ像。顔立ちがタイとかインドシナの人っぽくなってます。

カンボジアの仏像

カンボジアの仏像 ブッダと父母

北上して中国の仏像。日本の顔とさほど変わらないように見えます。

中国の仏像

中国の仏像

これは今回の大法恩寺展の観音様、13世紀に作られました。この時代の作風が現在の仏像制作において基準となっているようです。

大法恩寺六観音

慶派仏師・定慶作 見慣れた感じ

ところが日本でも時代が違うとこれですよ。7世紀・飛鳥時代の仏さま。トーハク法隆寺宝物館の展示物です。この時代の仏像ってちょっと宇宙人っぽいと思うのは私だけ?

法隆寺の仏像

1300年程前の仏像

美の基準なんて長い時間の流れから見たら一瞬のうつろい。もちろん時間をかけて積み重ねてきた「外せないポイント」というものはありますし、自己顕示欲から基本を無視するのは美しさとは離れていくことだと思います。それを踏まえた上で、自分が「これぞ仏さま」と思えばそれが仏。「これは美しい」と思えばそれが美。そんなことを感じた多様な仏さんたちの姿でした。