言葉の違いは在り方の違い

2019年2月5日 [CATお知らせ] [要素:, ]

ENGLISHページ、頑張って作りました。Google翻訳を主に使い、米国出身Eさんにチェックしてもらって、とうとう完成。

Eさんには「文法は間違っていてもいいので、感覚的に私の思いが伝わるかどうかをチェックしてほしい」とお願いしました。文法なんて滅茶苦茶でも、単語を並べただけでも、思いの伝わる文章ってあると思います。頭から頭へ、ではなく心から心へ伝わる言葉が。それを目指しました。私の意思を尊重してくれたEさんに感謝します。

英語で考えるのは、自分の意識を定めるのにとても良いトレーニングとなりました。

日本語って、主語がはっきりしないですよね。「誰が」が抜けていたり不特定多数だったり無生物だったりすることも多く、その主体は誰なのかぼんやりしています。でもそれを英語にしようとすると「誰が」「何を」「どうする」の3点を明確に意識しないと書けません。Google翻訳はかなり上手に翻訳してくれますがそれでも主語・述語・接続詞を正しく適切に使わないとおかしな内容になります。特に主語が間違っていること多し。

だからHPに書いた日本語を丸ごと翻訳にかけてもダメでした。元の日本語が不明瞭では、当然ながら正しい英語が出てこないのです。その、日本語があやふやであること(ひいては自分の意図が明確でないこと)に気づかせてくれたのが、英語への変換過程でした。

それともうひとつ、乏しい英語の語い故に、「最も伝えたい事は何か」を精査してそれ以外をそぎ落としていく作業も、意識の明確化に大きく役立ちました。できるだけ単純な言葉で思いを率直に伝える、それはとても重要で難しいことでもありました。

使う言葉が人を作る、という話があります。大抵は「ポジティブな言葉を使えばポジティブな生き方ができる」みたいな話の時に出てくるのですが今回、自分の思いを英語に変換する中で、それって本当にそうかもしれないなと思いました。集合的意識や主体性の薄い中で何をしたいかはっきり言わない日本人と、主語が明確で何をするか意識しながら言葉を使う英語やその他の言語を使う人たちではきっと行動に違いが出ます。

自分の日本語をいじくり回しながらしみじみ自分って日本人だと感じた私ですが、これを機会に、もっと主語と「何を」「どうしたい」かを意識して暮らそうと思います。でもね、不明瞭な日本語をふんわりと理解してくれる日本人もすごいと思うのですよ。だから私は両者のイイとこ取りを目指します。

ENGLISHページ、良かったら一度開いてみてください。読めとはいいませんので。見てね。内容としては「天先案内人とは」と「こだわり」ページの内容を整理してまとめて「海外発送について」を追加したものです。また、日本語の内容も少しずつ整理していきたいと思っています。

あなたにとって平成とは?

2019年1月9日 [CAT雑記] [要素:]

年末のTVから、あなたにとって平成とは?と流れてくるのを耳にして考えました。私にとってのこの30年。

私にとって、平成を一言で表すなら「再生」。

この30年で修復と崩壊を繰り返しながらも、自分を諦めずに前へ進みました。登っては落ち、登っては落ち、時には一緒に落ちた落石でぺったんこになりながら。そして昨年末、再生完了したように感じます。だから新しい元号と共に「新生」で出発。

そういえば、ちょうど30年前の今頃、私は両親と伊豆の高級旅館へ1泊旅行していました。平成が始まったばかりでした。私は年の離れた末っ子でして、兄姉たちは既に身を固めており、彼らが両親への感謝と慰労の気持ちを込めて企画しました。私はまだ学生で冬休み、父と母だけではケンカしそうだから添乗員として付いていけ(いい旅館にタダで泊まらせてやるから)との仰せで、お供しました。

両親にとっては新婚旅行以来の夫婦旅行でした。直前に昭和天皇が崩御され、キャンセルが相次いだ旅館はガラガラ、翌日の爪木崎も人が少なくて良かったのかも。ただし、テレビはどこを点けても天皇崩御の白黒な画面しか写りませんでしたが…。

その年の夏に父が倒れ余命3ヶ月宣告(私は知らなかったけど)、翌年秋に亡くなったことを考えたら、あの時旅行へ連れて行けて良かったと思います。きょうだいの中で両親とこうして旅行したのは私だけだったのでその点も、恵まれたのでしょう。

考えてみたらあの時、既に父は症状を抱えていたはず。分からなかったなぁ。父は全力で隠していたみたいだから(死後に知る)。言わせてもらえば、だから手遅れになったんじゃん。
病気を抱えている方、隠さずに病院へ行ってくださいね。でないと手遅れになりますからね。

そんなこんなで始まった平成。きつかったー!というのがまず第一。いえ、10代を過ごした昭和の時間もかなりきつかったですけど。
それでもここまで来られたし、仲間や友達にも仕事の上長にも恵まれました。そういえば夫と出会ったのも平成元年、ということは夫との付き合いほぼイコール平成ですわ。人に恵まれた平成でしたね。

これを読んでいるあなたにとって、平成とは何でしたか?
もし今、どうにもならない苦しい状況であるならそれはこの後、より高く飛翔するための準備かもしれません。大きく活躍する私の友人たちもその前には苦しい苦しい時間を送って、それでも自分を諦めずにはいつくばって進んできましたから。高く飛ぶためには身を低くかがめるんですよね。

5月から始まる新しい元号の時間を「新生」の私はどう生きたいのだろう?自問自答しています。

畜生界に物思う

2019年1月7日 [CAT仏像彫刻周辺の話] [要素:]

先の「小説 ブッダ」を読んでいる流れで、以前から納得いかないと感じていた「畜生界」という概念もやはりブッダの教えとは違うのだろうと感じました。畜生界は輪廻転生する6つの世界(六道)の中のひとつで下から3番目、ちなみに人間界は上から2番目。

そもそもブッダがインドで悟りを開いた理由、それはヒンズー教のカースト制度が大きな一因であったとされています。生まれながらにして社会的な階級が決められ不可触民とされた人々は人間として扱われる事すらない、そんな社会に疑問を持ったからこそ仏教が生まれたわけで。

ブッダは社会的地位も性別も関係なく人は平等であると説き、自分の命も他人の命も、動物であれ植物であれ、命の重みに差異は無いと教えています。だから無駄な殺生をしてはいけない(最小限の命を分けいただき生きよ)と弟子に伝えていたそうです。動物を殺すなかれとも。

小説にはブッダが「私が鹿だった頃」と子供たちにお話しする場面があります。ブッダの教えを記した経典に乗っている内容だそうで、彼は動物だったこともあれば植物だったこともあれば、鉱物だったことも風や雨だったこともあると話しています。

だったら動物の命も人間の命も差別はしないでしょうに。なぜどこで一体いつ、動物の魂は人間の魂より程度が劣るという概念が仏教に組み込まれたのでしょう。また、男性の僧に比べ尼僧の地位が低いのはブッダの教えに反したことではないのでしょうか。どの命も同じように大切、というのが教えの重要な根幹だと思うのですが。

犬の寝姿

まあちょっと落ち着け

イエスもブッダも他の聖者もきっとその原点となる教えはまっすぐで美しく筋の通ったものだっただろうに、それを受け入れた人間の社会によって歪められたまま継承された部分が沢山あるはず。イスラム教過激派なんて、イスラムの神様は泣いてるだろうなぁ。

ついでに言うと、動物(特に特定のほ乳類)を殺すことには過敏なのに植物や微生物や虫には無関心、な主張にも私はなじめません。いや、植物も微生物も虫も私は殺すことがありますけどね。微生物なんか毎日何億も殺して(食べて)るだろうし。人間は動植物の命を食べて生きているのだから殺生は避けて通れません。ただ、いただく命に感謝し、より少ない殺生ですむように心掛けることはできると思います。

小説を読みながら、畜生界、という概念から始まって色んなことを考えています。ずっと納得できなかった日本社会や仏教的通念の矛盾に「やっぱりね」と思う今日この頃。上でもなく下でもなく対等、という意識が増えたら世界はきっと平和になります。

もし死ぬのが自分だったら

2019年1月4日 [CAT雑記] [要素:, ]

明けましておめでとうございます。平成最後の年が実りあるものでありますように。今年もよろしくお願いします。
2019年始あいさつ

さて、新年早々縁起の悪い言葉を…と思われるかもしれませんが実はその逆、とても力強く大きな輝きを放つ方の視点を紹介いたします。

前にも書いたとおり農家の台所というブログを読んでいます。同名のレシピ本が出会いでして、その後レシピ検索で再会してから愛読しています。開けっ広げな心の真っ直ぐさが好きで。

書いているのは53歳の桂子さん、夫婦2人で農業に従事しながら農家ならではのレシピをまとめた本を出版。
10月に盟友でもある52歳の夫を突然亡くしました。本当に、突然。そこからの2ヶ月が圧巻です。後を追いたいと思うほどに落ちて落ちて落ち込んで、今、ものすごい勢いで翔け上がっています。読むだけでこちらの心が浄化されていくよう。
以前、友人たちの姿を見た時にも感じたことですが、高く飛翔する人はその前にとても低くかがみこむのだなと、改めて思いました。
蓮の花

その桂子さんが「亡くなった人の目線で考えたら遺してきた人がどう在ってほしいか、どう暮らしてほしいか」を考え、実践されてます。一部抜粋させていただきました。

私が死んで主人が生きてる。
そしたら、私は間違いなく主人をずっと見守っているでしょう。

そしてその主人が毎日落ち込み、ほとんど何も食べず、何もせず、嘆き悲しんでいたら、私の胸は張り裂けそうになると思います。
心はあっても、姿を現すことも手を握ってあげる事も、抱きしめてあげる事も出来ない。

でももし主人が、頑張って食べて、私の分まで長生きしようと思って、沢山の人に囲まれながら笑って、そしてたまに私の事を思い出して「会いたい」と思ってくれたなら私は幸せだと思うんです。

その通りだと思うのですよ。自分が死んでみる(頭の中で)と分かります。自分が死んだら空の上から誰を見るだろう?それが大切な存在であればあるほど、幸せに暮らしてほしいと思うはず。
雲に乗る小地蔵さん

忘れるのではなく、感情にフタをするのでもなく、目に見えなくなった大切な「誰か」と一緒に幸せな日々を送るのです。いつも頭の上から覗き込んでいるだろう「誰か」と共に。もし今が幸せでないと感じるなら幸せになるための努力を続ける。すぐそばで見守っているはずの見えない「誰か」に愚痴でも聞いてもらいながら。

ただし、感情を押し込めて頭だけでこう考えても苦しいだけ。出すだけ出して、悲しみを感じきって、ふと他者の視点に移ってみることで、目の前の世界が変わります。いつまでも悲しんでいたって別にいいじゃないですか。悼むことと不幸でいる事とは違います。

実は私も、同じ視点を抱いてこの15年を生きてきました。この命が終わり、先に逝ってあの世で待っている大切なものたちと顔を合わせた時に、自分の人生から逃げて彼らに顔向けできないなんて絶対嫌、「自分なりに頑張った人生だったよ」と報告できるようにありたいと自分を鼓舞しつつ。

「小説 ブッダ」の中にこんな話が出てきます。

種から芽が出てそれが育って木になりました。さて、種はどこへ行ったのでしょうか。消えて(死んで)しまった?
いいえ、違います。種は形を変えて生きています。今は木という形で。
生と死とは形の違い。全ての現象は別の現象に変化する。本当は生も死もなく、ただ命の循環があるのみ。消えたように見える命もこの世界の全てに形を変えて生きている。だから死を恐れる必要は無い。

大切な亡き「誰か」も形を変えて存在していると思えたら、死別の苦しみももっと楽になるし、遺された者の人生も軽やかになるでしょう。

得の高い魂ー若くして亡くなることに思う

2018年12月21日 [CAT仏像彫刻周辺の話] [要素:]

ブッダはこんなことを言ったそうです。「生きることは苦行である」と。

仏教とは別の話で、人間はその苦行をして魂を磨くためにわざわざこの世界へ肉体を持って生まれてくるのだと聞いたこともあります。それで改めて思うのです。幼くして・若くして亡くなる方の魂というのは、苦行をする必要のないほど徳の高い魂なんじゃないかなって。

彼らの魂はきっと、修行をするためではなく周囲に何かを与えるために生まれてくるのだと思うのです。何か大切なものを与えて、仕事を終えたらさっと空へ還ってしまう、そんな存在に感じます。

なぜ今、そんなことを考えているかといえば、ティク・ナット・ハン著「小説 ブッダ」を読んでいるから。小説ではありますが経典や史料を基にブッダが伝えた本来の仏教に迫る内容で、幼くして亡くなった魂は修業が足らないから三途の川を渡れないなんて間違った教え、ブッダは絶対言ってないと確信しました。
6寸地蔵菩薩立像完成正面

そもそもブッダが伝えたのは本質的な「苦悩から救われるための暮らし方・物の見方考え方」であって、今の仏教的体系は後世にできたもの。富や権力その他を得るための手段として宗教を利用した結果、歪められた教えもあるでしょうし、間違った観念が正されずに残った場合もあるでしょう。

あれは無理やり地蔵菩薩にすがらせる(=仏教を普及させる)ために作った概念だったのか、あるいは仏教以前からそういう捉え方があったのか。いずれにしても役に立たない言葉です。

子供を亡くした親の心を傷付けるだけでこれっぽっちも救えない宗教なんて、価値はありません。そんなものに心を踏みにじられる必要も全くありませんて。子供を亡くした友人たちが「うちの子は徳の高い魂だったんだ、だから神様のお使いを終えて速やかに天へ還っていったんだ」と思える社会通念であってほしいと願っています。

「小説 ブッダ」、なかなか面白いです。まさか自分がこういう本に興味を持つとは思ってもいませんでしたけども。お地蔵さんを作って人様に提供する以上は地蔵菩薩本来の概念を知りたいという気持ちも根底にありまして。

ところで私、長生きしそうなのです。いっぱい修行しろってことですかね(^^;

追記 書いていて思いました。神様と仏様、天国と極楽が何の違和感もなく共存する私の意識はどっぷり日本人。それに「ん?」と思わないあなたもどっぷり日本人(笑い)。