ヒノキの家になれなくても

2019年6月13日 [CAT小地蔵さん] [要素:]

やっと少しずつ、減っていた小地蔵さんたちの補充に向けて作業を始めました。といっても本当に亀のような歩みですけど。なんせまだ3日に1回数時間ずつしか彫れないので。

久々に小地蔵さんを作りながら改めて思います。ヒノキの家になれなかった端材たち、仏になれたらうれしいよね?

季節もの

以前、平等院のミュージアムで見た古い仏像。一般的に仏像にはサイズや配置の決まり事がありますがその仏像は元の木の形に合わせて作られたため、ちょっと歪んでいたりしました。倒れたご神木の形に合わせて作ったのだそうです。私はそれを見てとてもいいなぁと思いました。美しいと定められた形に合わなくても物を大切にする心やご神木に対する畏敬の念が感じられて。

今の時代は木材もぜいたくに使えますがかつては貴重だったはずで、外観にこだわらず使っていたのではないでしょうか。使われた木の種類も様々で、本当に「自然である」とはこういうことなのかなと思います。

木目のきれいに詰まった木材は、それはそれで素晴らしい。観賞するための仏像にはそういう物を使えばより価値が高まるでしょう。でも私の作品のような、なでたり持ち運んだりして「使う」物なら、木が喜ぶことの方が重要な気がするのです。だから端材の端材もできるだけ何かに使ってあげたいと心掛けています。

できるだけ多くの木片を仏にしてあげたい。ヒノキの家になれなくて薪ストーブで燃やされるはずだった木片たちが、待っています。ゆっくり、焦らず、作っていきましょう。

友達の定義

2019年6月5日 [CAT雑記] [要素:]

先日、友人と「友達って」な話をしました。以下、私の友達観です。

私にとって友達とは、損得勘定のない関係。義理しがらみとも遠い関係(義理で動くのは知人)。だから友達を利用して利益を得ようとする人とは付き合えないし、人として対等であろうとしない人とも(それが上であれ下であれ)難しい。心から大切に思い誠実であることを心掛けています。それが通じるのが私にとっての友達。

じゃあ、仲間って何だろう?とも考えました。仲間は私にとって、同じ方向・身近な目標目指して共に活動する人たち。これももちろん個々の利害関係無し。

仲間と友達、違うのかと言われたら大体同じです(笑い)。友達の方がより私的な付き合いをする点と、一緒に何かの活動をするとは限らない点が相違点かな?行動区域が違います。でも最も重要な価値観とか在り方が同じ方を向いている点では同じです。

私の場合、人間関係の選択では「SNS無しでも関わっていける人」というのも必要。

私、携帯電話を持たない主義です(でも実は20年前には持ってました)。ネットは使うし便利だと思うけれども電話や手紙しか連絡方法がなくてもいいから、「つながり」を強調するSNSに頼らなくても連絡できて話の出来る人。SNSはとても便利だし手段として優秀だと思うけど、便利じゃなくても関われるかが私には大事。

コースター上の仏さんたち

仲間…?

友達って、「作る」ものじゃなくて「なる」ものだと思っています。あいさつから始まって、関わっていく内により深い話をするようになって、いつからか友達に「なって」いるものだと。だからSNSやショートメッセージ使えないなんて面倒くさい、と思うならその人への興味はその程度だと認識してます。連絡が不便でもそれでもやり取りしたい、と思えるかどうかが最初の一歩じゃないのかな。

友達少なくても私は、幸せです。量より質だと思います。友達は自分で選ぶことができます。恋愛でも友情でも何でも、真に信頼できる人と真摯に関わっていけることこそ、幸せだと思うのです。

悩みがほどけて前向きになれる場所

2019年5月16日 [CAT仏像彫刻周辺の話] [要素:, ]

旅行中、手の状態がだいぶ良くなって、「これなら間もなく治るのでは」と期待しました。が、帰宅して日常に戻ったら逆に悪化。これ、さすがにかなり落ち込みました。しかも落ちたまま戻れない。どーーーーーん。

それが、同好会へ行っておしゃべりしていたら何だか元気が出てきて、新しい視点から対策を考えたりまた前を向くことができました。

ケガの事なんて話してないのに。たわいもない話をして笑っていただけなのに。仏像仲間、恐るべし。

ところで今ある手指の痛み、50歳前後の更年期にある女性が患う症状なんだって!どんぴしゃですわ。ホルモンバランスが急激に変わったことに体が対処しきれなくて関節の状態が悪くなったりするらしい。症状がどこに出るかは生活様式や体質による。

そうだよねぇ。だって治らないのがおかしいと思うほど、手を大事にしてるもん。痛める程使ってないし。使い過ぎが原因ならとっくに治ってるはずなのに悪化するって、どういうこと?問題の根っこは手じゃないんだな。

思ったより長引くのかも。いやもう十分長引いてるけど。だからこれからは、この状態でいかに負担をかけず彫るかを探っていきます。

形の先にあるもの

2019年4月17日 [CAT雑記] [要素:]

東寺展の帝釈天騎象像を見ながら思いました。私はこれを見てどこに美しさを感じるのだろう。形…だけではないよね、きっと。もちろんこの形は好みだし、素晴らしいと思うけれども。

東寺の帝釈天騎象像

東寺展HPより拝借

子供の頃、いつも思っていました。なぜ大人は成績とか体格とか表面しか見ないのだろう、なぜその人(子)の中身を見ないのだろう、と。

やがて成長して10代に入ると、それは大人だけでなく同年代の子でも同じだと気付きました。表面しか見ない人のなんと多いことか。表面に振り回される人のなんと愚かなことか。自分自身も含めて(多感な10代は複雑なのです)。

成績が良い、顔立ちが整っている、体形がきれい。…それで?
それはそれで素敵な事だけど単なるひとつの要素に過ぎません。その人の存在を形成する要素のひとつ。それを人としての価値そのもののように扱うのはおかしいよなぁと青臭いティーンエイジャーはずっと感じていました。大切なのは中身なのに。

そして50代に突入した今でも、その認識は変わりません。

だからこの帝釈天も単なる形に感動しているのではないと思うのです。形もさることながら、そこからにじみ出る何かに美を感じているのでしょう、きっと。もしかしたらそれは、作った人の魂の輝きかもしれません。
以前、先生がおっしゃった「仏像彫刻は形ではない。心が大事」というのはそういうことなんだろうなと、改めて思います。

形に敬意を払い、形を追求していくその先にある何か。人の心に届く何かを目指して、これからも彫っていきます。ありがたいことに、その思いを理解してくれる人がいてくれる。

そのためには、とりあえず腱鞘炎治ってください;;>自分の両手
そう思うなら手の使い方を直してください<自分の両手

趣味で最も重要な事

2019年4月15日 [CAT仏像彫刻周辺の話] [要素:]

仏像彫刻をやってみたいけど、「絵心がないから」とか「そんなに上手くはできないから」やらないという理由をしばしば聞きます。その他、「自分には仏像を彫る資格がない」というのも。

一度やってみればいいのにー。その好奇心がもったいない。

絵心は関係ありません。絵は平面、彫刻は立体。しかも自分で作図するわけじゃないから。仏像彫刻はただひたすら基本の作り方と下図に忠実に作っていくのみ。反復練習して経験を積むことが唯一の上達法です。
地蔵菩薩下絵

それに、趣味なのに上手くないといけないんでしょうか。仕事で作るのであれば精神的・技術的に一定レベルが必要なのは当然ですが、好きでやっているだけの趣味にその考え方はそぐわないと思うのです。例えば趣味でテニスを始めたからって「錦織選手みたいなプレーができない」という理由で止めたりしないでしょう?

歴代仏師のレベルを目指すのであればプロに弟子入りすればよし。でも趣味ならば、他者と比較して優劣を決める必要はありません。それをする人は多分、続かないと思います。やればやるほど辛くなっちゃうから。

そして仏像というのはありがたいことに、趣味で彫っているだけでも自分の中にあるドロドロを清めてくれます。しかも像の中には残りません。だって仏さまだもん。仏は穢(けが)れません。心がぐしゃぐしゃな時ほど本当は彫った方がいい(でも実際はそういう時って彫れないものだけど)。覚りを開いた聖人君子は仏像を彫る必要なし。また彫る人に仏への信仰心なんかなくても仏さんは彫ることを喜んでくれると思います。
母の白衣観音

ま、趣味なんて自分がやりたい事だけやればいいんです。基礎は飛ばす、と思うならそうすればいい。だってその人の趣味だから。好きなことだけやればいい。やってみて「やはり基礎技術が必要」と思ったら練習すればいいのでは。生活に関しては「好きな事だけ」なんてできないけれど、趣味だからこそ「好きな事だけ」できるのです。

一番重要なのは、面白がる心だと思います。上手く作る事ではありません。上手くいかなくて頭を抱えている時ですら悩んで落ち込んでいる自分を面白がってみる、そんな心意気。私なんて最初の3年程は仏像に対して面白がることはあまり無く、仏像彫刻仲間といるのが面白くて続けていただけ。今は彫ることも面白いですが。そんな面白がり方もあったっていいでしょ?

やってみて、続けるかどうかはその後考えればいいと思うのです。やってみて満足したらまた別の事をすればいいし。やってみる、ということをせずにいつまでも気持ちを引きずる方がずっと問題。

皆さんもやってみたいことがあればとりあえず、試した方がいいですよ。芽吹きの春だしね。何か始めませんか。