仏像の顔いろいろ

2018年10月12日 [ 雑記] [ , ]

一言で仏像と言ってもこんなに違うんですよ、という話。

こちらトーハク東洋館に展示されているアジアの仏像です。まずは仏教発祥の地インドのお隣、パキスタン。ギリシャ彫刻の影響を受けているらしいです。でも、そもそもブッダはインド・ヨーロッパ系民族なんでしょうから(違ったら失礼)、本当にこんな顔立ちだった可能性もあるわけで。

インド系の仏像

パキスタンの菩薩

東へと布教が進みインドシナ・カンボジアのブッダ像。顔立ちがタイとかインドシナの人っぽくなってます。

カンボジアの仏像

カンボジアの仏像 ブッダと父母

北上して中国の仏像。日本の顔とさほど変わらないように見えます。

中国の仏像

中国の仏像

これは今回の大法恩寺展の観音様、13世紀に作られました。この時代の作風が現在の仏像制作において基準となっているようです。

大法恩寺六観音

慶派仏師・定慶作 見慣れた感じ

ところが日本でも時代が違うとこれですよ。7世紀・飛鳥時代の仏さま。トーハク法隆寺宝物館の展示物です。この時代の仏像ってちょっと宇宙人っぽいと思うのは私だけ?

法隆寺の仏像

1300年程前の仏像

美の基準なんて長い時間の流れから見たら一瞬のうつろい。もちろん時間をかけて積み重ねてきた「外せないポイント」というものはありますし、自己顕示欲から基本を無視するのは美しさとは離れていくことだと思います。それを踏まえた上で、自分が「これぞ仏さま」と思えばそれが仏。「これは美しい」と思えばそれが美。そんなことを感じた多様な仏さんたちの姿でした。

道は選び放題

2018年10月11日 [ 雑記] [ ]

今回の東京行きでは、小地蔵さんをサロンに置いてくれている友人に会ったり、様々な様式の仏像を見たりして、最近迷っていた事を含め色々と再確認する時間となりました。

答え(選択肢)はひとつじゃない。どれを選んでも決して「間違い」というのは存在せず、自分が納得できる方法を選べばいい。大事なのは、これと決めたらそこへ向かって最善を尽くすこと。いつまでも選択が正しかったのかなんてグズグズ悩んでいたら一歩も前に進めません。

まずは決める、そして行動する。当たり前といえば当たり前、けどなかなかそう思い切れない事でもあります。が、腹をくくるきっかけになりました。

例えば仏像の美について。仏像って、今は鎌倉時代の慶派の築き上げた形状が最も良しとされていて、作る時の基準サイズもそれにならっています。ですが時代と共にその基準は変化し、同じ地蔵菩薩であっても地域や時代が違えば全く違う形状になっていたりします。何を美しいと感じるかは人によっても違います。

だったら自分の感覚に従ってもいいんじゃないかなと思うのです。世間の、時代の定めた基準はそれはそれとして、その上で自分が何を選ぶかは自由。それから、自分が理想と思うやり方と、今の自分に合ったやり方が一致しなくてもいいんだな。

美の基準だけでなく他の色んな事柄も同じように感じました。実は選び放題なんですね。

かの友人とは、思い惑う時期になると会う機会がやってきます。お互い色々話をして自分の中で整理を付けて、また歩き出す、そんな存在。上野で食べたランチが美味しかったー。
上野でランチ

ちなみに東京・門前仲町の陽だまりのしっぽサロンに駐在している派遣部隊の面々は元気そう(?)でしたよ。お神酒を供えてもらっているとのことで「もしかして太ってたら笑える」と思いましたが、そんなこともなく。彼らもどうやら酒好きらしいので「しっかり働かないと次は連れて帰るからね(=お酒も飲めなくなる)」と軽く激励(脅?)しておきました(笑い)。

魂が響き合う

お世話になっている工務店・育暮家ハイホームスで社長業を引き継ぐ式典というかイベントがありました。うちは夫婦で参加。

たくさんの施主さん、多様な業界の方達、そして職人さんと社員さんの家族。みんな工務店の前社長・杉村さんの人柄に惹かれ、信頼し、祝福していました。その数250人超。ちなみに参加は有料ですよ。

工務店が代替わりするからって施主がこんなに集まるのは異例だと、祝辞をされた方達揃って言ってましたね。確かにそうかも。それもこれも杉村さんの在り方が人を引き寄せたのでしょう。

杉村さんって、世渡りは下手だと思います(きっぱり)。でも損得計算・打算がない率直で真っすぐな人。例えば家づくりで何かを相談しても、会社の利益とは全く関係なく真にベターと思うことを伝えてくれます。施主への妙なソンタクもありません。その下に集う社員さんたちもまた同じく。前社長への厳しいダメ出しに深い愛を感じます(笑い)。

家って、建てる時より建てた後の維持管理の方が実は大変だったりします。ハイホームスの家は建てた後、本当にお金がかからないですよ。自然の力を利用した省エネ設計だし。何より、丁寧に定期検査をしてくれて、トラブルがあってもここへ電話すれば大丈夫という安心感が大きいです。

相次ぎ亡くなった社員さん2名の思い出も流れました。その場面で、私が寄贈した6地蔵を一緒に写していただけたのが本当にうれしかったです。お二人の写真を見たら涙が止まりませんでした。その想いごと彫りこんだ6地蔵です。

ハイホームス用6地蔵

育暮家ハイホームスの6地蔵

そこに集った方々を見て、言葉を聞いて、杉村さんと魂の響き合う人が集まったのだなと感じました。人として真っ当であろうとする人ばかりでした。自分の周りに集う友人知人というのは自分の写し鏡。私は、その中に集う事が出来て本当にうれしく思いました。

新社長の寺坂さんも決して器用ではないですが(失礼)、やはり真っすぐな方です。これからも安心して家の事をお願いできるのがありがたいです。会場では仏像彫刻材でお世話になっている落合さんにもご挨拶できました。どうぞこれからもよろしくお願いします。

手作業へのこだわり

2018年7月20日 [ 雑記] [ ]

同好会にて。皆さん集まってわいわいと「正しき仏像彫刻として許されるのはどの道具使用までか」を話していました。彫刻刀・ノミはいいとして他に、正式な仏像彫刻と認められる使用可能な道具って何だろう、という話題。
のこぎり

今どきの安い仏像のように、3Dプリンターみたいにデータを入れて機械が削り(彫るのではなく削る)最後だけ人間が表面を彫った物を“彫刻”と呼んでいいのだろうかという疑念があります。では、“彫刻”と呼べるにはどういう作り方がいいものか?

実はお寺へ寄贈する光背と台座を作り始めた方がおられまして。お寺には阿弥陀さま本体だけがあるとかで、阿弥陀さまを乗せる台を作ってくれないかとリクエストされて気軽に引き受けたら実は予想よりだいぶ大きな像だったそうで、「えらい大仕事だ」と笑っていました。

その荒彫りがものすごい作業量なのです。それを手作業でやっていました。ちょうど私が電動彫刻刀を持って来ていたもので「使いますか?」と聞いたところ、自分の手で全部やりたいとのこと。お寺へ寄贈する物だけに思い入れが深いのですね。だから「正式な」にこだわったわけです。それに続き、上記のような話題へ。

結果としては、電動でない道具がベターでは、というところでまとまったようです。そもそも大物仏師は台座を作らない、本体しか作らないから、って。本体以外は弟子が作ったりするし、荒彫りが要らないくらいまで木地師がろくろで挽いて形作ってくれます。

整った形だけ欲しいのであれば3Dプリンターでも何でもいいと思います。例えば仏像のフィギュアなど。良いとか悪いとかでなく、何を重視するかの違い。思いを込めて彫る人がこだわるのは「過程」の重視。もちろん最終的な形である「結果」も気にしますが、それが祈りの対象となる物である以上、そこに至るまでの過程のひとつひとつをできる限り自力で丁寧にこなしたいのです。

小地蔵さん・小毬ちゃんを作るにあたり、私もそれは同じです。腱鞘炎を起こしやすい体質のため堅い木口の荒彫りには電動彫刻刀を少々使いますが、用材の仕入れ・切り出しから全て自分でやっています。
木取りの状態

先輩の寄贈する台座光背は、プロに作ってもらったら何十万円かかるかという大作です。用材だけでもびっくりする値段でした。でも、きっと素晴らしい作品に仕上がると思います。その想いの深さが伝わってきて心洗われるひと時でした。

良いも悪いも

2018年6月6日 [ 雑記] [ ]

友人が聞かせてくれた話です。その友人は今、自分に要らない物事を手放す作業の真っ最中で色々勉強もしていて、熱く語ってくれました。話している中で印象に残った言葉がこれ。

「悪い」だけでなく「良い」と思う事も手放す。それが本当の解放。

なるほどなぁと思ったわけです。自己啓発を始めると「悪い」ネガティブ感情・価値観だけを手放そうとするものだけど、本当はその対極にある「良い」もひもの両端でつながっているのだから、両方手放さないといけないんですね。

良いとか悪いとかジャッジする事自体が傾いている状況で、良いも悪いもない、ただその事実が存在するのみというのが本当に手放した「中庸」なのでしょう。片方だけ放してもひもの端っこを握ったままでは手放すことはできない、と。

目からうろこが落ちたような感覚でした。人間だから常に中庸ではいられないけれども、それほど大きくない振り幅で行ったり来たりしながら中央辺りをうろうろできたらいいなぁ。