没イチ

2019年2月14日 [CAT雑記] [要素:]

連れ添いを失くし独りで暮らす男性たちが「没(ぼつ)イチ ランウェイ」と称したファッションショーを開いたと、新聞で読みました。バツイチならぬ没イチだそうで。特に男性は遺されると暮らしそのものに支障が出る人も多いようで、女性に比べてしょんぼりしがちです。そんな人たちが亡き妻の分まで楽しんで生きていこうとする試みとのことでした。

没イチ…愛のあるお茶目なネーミングだと思いました。ただし、これって当事者が自分の事を紹介するのに使うからそう感じられるのだと思います。「ぴんぴんころり」と一緒で、自分の事として言う分にはいいけど他人から言われたくない言葉かも。例えばまだ亡くなったことを受け入れられずにいる時とか、特に。

私の周りには、若いうちに夫を亡くし働きながら子育てして頑張ってきた女性が何人もいます。その方達に共通するのが明るさと行動力。輝くような今を生きていて、苦しかったであろう過去の事すら楽しく話してくれます。私の母親もこんな生き方をしてくれていたらなぁとつい思ってしまいますがそれは置いといて。

喪失の哀しみは、寄せる波のごとく、あるいは間欠泉のごとく感じます。明るく笑って過ごしている次の瞬間、触れることすらできない現実に絶望したり虚しさに後ろを向いたり。そしてまた前を向こうと進んでみては、落ち込んでみたり。心の底には決して消えることのない哀しみが埋もれていて、たまに顔を出しては引っ込んでを繰り返しながら、時間をかけて少しずつ痛みが癒えていくように思います。
蓮華と小地蔵さん

大切な存在を失った悲しみはどれだけ時間が経っても0にはならないかもしれません。でもそれでいいんじゃないかな。不幸でいようとさえしなければ。悲しみを解消できるならそれはその方がいいでしょうけども、解消できなくても、哀しみを懐深くに抱えたまま幸せに生きればいいと私は思います。

センスの良さは練習次第

2019年1月25日 [CAT雑記] [要素:]

仏像仲間の女性で着こなしのすごく素敵な人がいるのです。服や小物との組み合わせが何ともおしゃれで優雅で、ついつい見入ってしまいます。「バザーで買った100円の服もあるのよ」とご本人は笑ってましたが、質の高い服も安い素材も古い形状も上手に着こなしているのを、すごいなぁといつも思います。他の仲間も「本当にセンスいいねぇ」と感嘆する事しきり。

その方はかつて、雛人形制作メーカーの社長さんでした。美術的な才能はなかった(本人談)けれども「色」が大好きで、とにかく色の事を勉強して、色の組み合わせをひたすら試していったのだそうです。「私ね、他の事はどれもダメだけど色だけは好きだし自信を持って扱える」というその方の作品は、着物の色柄あわせがシックでかっこいい、気品あるお雛さまでした。
金襴

でね、その方が言うのです。「センスの良さは訓練次第。生まれつきなんかじゃない」と。とにかく数をこなすこと。思いつくだけの組み合わせをひたすら試して試して試して、するとやがて何かをつかめるようになる日が来ると。そうやって得意な部分を伸ばせば他の事もつられて伸びるのでしょう。

それを聞いて以来、服を着る時に少しだけ色の事を考えるようになりました。私は元々、外観にあまり重きを置かないのですが、自分から見て好きだと感じられる格好をしていたいとは思います。他人のためじゃなく自分のために、素敵な着こなしができたらいいなぁと願いつつ。

センスの良さは生まれつきなんかじゃない、練習して獲得できるもの。ちょっとうれしい気持ちになります。

もし死ぬのが自分だったら

2019年1月4日 [CAT雑記] [要素:, ]

明けましておめでとうございます。平成最後の年が実りあるものでありますように。今年もよろしくお願いします。
2019年始あいさつ

さて、新年早々縁起の悪い言葉を…と思われるかもしれませんが実はその逆、とても力強く大きな輝きを放つ方の視点を紹介いたします。

前にも書いたとおり農家の台所というブログを読んでいます。同名のレシピ本が出会いでして、その後レシピ検索で再会してから愛読しています。開けっ広げな心の真っ直ぐさが好きで。

書いているのは53歳の桂子さん、夫婦2人で農業に従事しながら農家ならではのレシピをまとめた本を出版。
10月に盟友でもある52歳の夫を突然亡くしました。本当に、突然。そこからの2ヶ月が圧巻です。後を追いたいと思うほどに落ちて落ちて落ち込んで、今、ものすごい勢いで翔け上がっています。読むだけでこちらの心が浄化されていくよう。
以前、友人たちの姿を見た時にも感じたことですが、高く飛翔する人はその前にとても低くかがみこむのだなと、改めて思いました。
蓮の花

その桂子さんが「亡くなった人の目線で考えたら遺してきた人がどう在ってほしいか、どう暮らしてほしいか」を考え、実践されてます。一部抜粋させていただきました。

私が死んで主人が生きてる。
そしたら、私は間違いなく主人をずっと見守っているでしょう。

そしてその主人が毎日落ち込み、ほとんど何も食べず、何もせず、嘆き悲しんでいたら、私の胸は張り裂けそうになると思います。
心はあっても、姿を現すことも手を握ってあげる事も、抱きしめてあげる事も出来ない。

でももし主人が、頑張って食べて、私の分まで長生きしようと思って、沢山の人に囲まれながら笑って、そしてたまに私の事を思い出して「会いたい」と思ってくれたなら私は幸せだと思うんです。

その通りだと思うのですよ。自分が死んでみる(頭の中で)と分かります。自分が死んだら空の上から誰を見るだろう?それが大切な存在であればあるほど、幸せに暮らしてほしいと思うはず。
雲に乗る小地蔵さん

忘れるのではなく、感情にフタをするのでもなく、目に見えなくなった大切な「誰か」と一緒に幸せな日々を送るのです。いつも頭の上から覗き込んでいるだろう「誰か」と共に。もし今が幸せでないと感じるなら幸せになるための努力を続ける。すぐそばで見守っているはずの見えない「誰か」に愚痴でも聞いてもらいながら。

ただし、感情を押し込めて頭だけでこう考えても苦しいだけ。出すだけ出して、悲しみを感じきって、ふと他者の視点に移ってみることで、目の前の世界が変わります。いつまでも悲しんでいたって別にいいじゃないですか。悼むことと不幸でいる事とは違います。

実は私も、同じ視点を抱いてこの15年を生きてきました。この命が終わり、先に逝ってあの世で待っている大切なものたちと顔を合わせた時に、自分の人生から逃げて彼らに顔向けできないなんて絶対嫌、「自分なりに頑張った人生だったよ」と報告できるようにありたいと自分を鼓舞しつつ。

「小説 ブッダ」の中にこんな話が出てきます。

種から芽が出てそれが育って木になりました。さて、種はどこへ行ったのでしょうか。消えて(死んで)しまった?
いいえ、違います。種は形を変えて生きています。今は木という形で。
生と死とは形の違い。全ての現象は別の現象に変化する。本当は生も死もなく、ただ命の循環があるのみ。消えたように見える命もこの世界の全てに形を変えて生きている。だから死を恐れる必要は無い。

大切な亡き「誰か」も形を変えて存在していると思えたら、死別の苦しみももっと楽になるし、遺された者の人生も軽やかになるでしょう。

今の自分で幸せと感じられるか

2018年11月20日 [CAT仏像彫刻周辺の話] [要素:, ]

この1ヶ月半、手の状態が一進一退を繰り返しちっとも「治癒」へと進みませんでした。1ヶ月もあれば完治するだろう怪我だと思っていたらとんでもなく悪化した挙句、2次的・3次的問題を発症し、彫刻どころか日常生活も満足にできず。前向きに暮らしているつもりでも、時にはいらだったり落胆したりの毎日。

そんな折、岸見一郎さんの言葉に「うっ」となりました。

NHK 100分de名著 「人生論ノート」の初回でした。たまたまTVを点けたらその番組で、ぼんやりと眺めていました。岸見さんが脳梗塞で身動き取れない状態になった時に到達した「自分はなんと幸せであろうか」という思いに、自分自身を振り返りました。

今の私、全然幸せだと思ってない。むしろ不幸感さえ持っていてそれから脱する事しか考えてない。助けてくれる周囲に対して感謝はしているけれど彫れないというだけで不幸な気持ちに陥ってしまっている。今まで自分は幸せだと思っていたけれどもその「幸せ」は条件付きだったんだ…。

ずきっときましたね。生かされていることに感謝するどころか、ただ1点の「できない」事(仏像彫刻)に焦点を当てて落ち込んでいる自分に気付きました。そして、自分にとってどれほど仏像彫刻が特別であるかも自覚しました。
小地蔵さん 念珠

一番ひどい状態の時は2週間、右手(利き手)を動かすこともままならず、ほぼ左手1本で暮らしました。その生活を経験してほとんどの事は、できないならできないなりのレベルで暮らしていけばいいやと割り切れました。時間さえかければそこそこイケル。
人生はいつか終わるし、いずれ衰えてできない事が増えていくのだからそれが早いか遅いかだけの話。もし後遺症が残って指が不自由になったとしても暮らすことは何とかなると思えます。
だけど仏像彫刻だけは、レベルダウンなんて絶対嫌。もっと上手になりたい、まだ彫りたい細かな細工があるのです。まだ全然やり切ってない。

ただ、だからといってその大切な何かが思い通りにできなくてネガティブな感情に浸り続けるのは、方向が違うんです。多分、そこからまた何かが始まる。

例えば疾患や障害により、生き甲斐を失ったり体ひとつ動かすのが困難な寝たきりの状態で「幸せ」に到達するのがどれほど困難なことか。それをしている人たちは何と高い山に向かって進んでいるのでしょう。

私はそんな高い山には登れないでしょうけれども、自分なりの山あり谷ありな時間を過ごしています。ちなみに手の状態は…収束は見えてきましたがもう少しでしょうかね。年内はのんびりしようと思います。

1日を積み重ねるだけ

2018年10月1日 [CAT仏像彫刻周辺の話] [要素:]

仏像彫刻仲間で蓮台の花びらを1枚ずつ作って貼り付ける作業をしている方がいます。花びら別作りって難しいのです。

奈良国立博物館に寄付するともらえる冊子

花びら別作りはこんな蓮台

蓮台のカーブと花びらのカーブが合うように作らないといけなくて、それを何十枚も重ねていくのだからズレや歪みも生じてくるわけで、そこを修正しながらの作業となります。

花びら1枚作るだけでも大変な作業なのに、それを何十枚も。気の遠くなるような話です。その作業についてご本人がこんな事を話されてました。

1日1枚でいいから作る。残りはどのくらいかなんて先を考えると嫌になっちゃうから、ただ今日作る花びらを考えるだけ。それを1日1日積み重ねていくだけ。

1日1枚なら花びらだけで1ヶ月以上かかります。わずかに進む今日という1日をただひたすら積み重ねていく。振り返ってみて初めて道ができていると気付くのでしょう。私も先を考えて嫌になっちゃった時にはこの言葉を思い出すとします。

これって禅で言う「今この瞬間を生きる」ってヤツですね。過去でもなく未来でもなく、今この時に意識を集中して丁寧に過ごす。彫りながら座禅組んでるのと同じ状態になっているんだろうなぁと思います。祈りの心あふれるような作品なのですよ。